まさに人生の教科書!佐藤愛子先生の傑作エッセイ集に感動を受けまくる今日この頃です。

こんにちは。栗原貴子です。

私はこの頃、佐藤愛子先生のご著書を好んで手にしている。

2016年8月に刊行された『九十歳。なにがめでたい』(小学館)のレビューを読み、興味を持って書店に行き、パラパラとめくると活字が絵本のごとく大きなQ数であったことに感動した。老眼の兆しを覚えている40代は裸眼でも余裕。眼鏡をかけても読書はしんどいので「ハズキルーペ」の購入を検討している、という世代でもこれならば読める。


内容に感動したのは言うまでもないが、歯に衣着せぬ物言いとはこのことよ! であり、老齢によって起こる肉体の諸現象にもズバズバと切り込んでいて「老境へと差し掛かる前に、肉体にどのような変化があるのかを予備知識として得る」ことができた。


私は「老い」への不安や加齢による変化についてのおしゃべりがあまり得意ではない。


有効な対策について、ディスカッションを交わしたり、情報交換ができるのならばよいのだが、生産性のない結末(お互いに「大丈夫よ」とか「そんなことないですよ、若々しいですよ」とか「お互い様ね」などと言い合って着地する系の会話)がいたって苦手なのだ。なぜなら、楽しくないからである。生産性のない話をするのならば、もっとバカバカしくて楽しい話をしたい。


身内に対してもそうである。

昨年末にも父・セバスチャンが髪が薄くなったと嘆いていたが「もう70歳を超えたのだから、あきらめなさい」と告げた。


(父は執事のごとく送迎が好きで徒歩5分の郵便ポストまで行くという私に「車で行こうか」というほどであるためブログでは「セバスチャン」と呼んでいる。『アルプスの少女ハイジ』のクララの家の執事がセバスチャンなのだ。しかし、本物の執事であれば送迎以外のことも「お嬢様、かしこまりました」とやるはずだが、うちのセバスチャンは送迎ぐらいしかやらないのであだ名負けだと思う)


セバスチャンは私の父らしく毛量がふっさふさであったが50代の頃に「やっと髪の量がちょうどよくなった」と言っていた男である。そのときは「お父さん、そういうことを公共の場で言ってはダメよ。気にしている人から恨まれたり、憎まれたりするわよ」と諭したのであった。しかし、あんなにもお調子こいていたくせに、髪は薄くなるのである。今、毛量フサフサでお調子こいている私であるが気を付けたいところだ。


母が自身が高齢者となるこへの不安を口にしていたときも「お母さん、佐藤愛子さんのご本にいろいろ書いてあったから、読んでね💛」といった。「目が疲れるから、本は……」というので「大丈夫よ、絵本並みに大きな活字だから💛」と付け加えて本を渡した。

老いに関しては娘は後輩なので先輩に学んで欲しいのであり、さらに言えばそういう話題が苦手な娘なのである。


そんな私は今、『楽天道』(文春文庫)を読んでいる。

こちらは、愛子先生が50代~60代にかけて執筆されたエッセイから編集者が選び、編纂したものだそう。大正12年生まれの愛子先生が50代~60代ということは30~40年ほど前になる。


私が驚愕したのは、その頃から愛子先生は「男子がひ弱になった」と嘆き、「女性が簡単にはオバサン、オバアサンになれなくなった」と書いていたことだ。


今に

始まった

ことじゃ

ないのね!


と驚いたのである。


その中でも私がとくに膝を打ったのは「新解釈・舌切雀」というエッセイ。昔話の舌切雀では「強欲なおばあさんが、おじいさんが可愛がっていたスズメの舌を切り、欲をかいて大きなつづらを持ち帰ってつづらからお化けが出る」という筋書きである。それを


どうして

おばあさんが

そういう

オンナに

なったのか?


という視点から愛子先生は書いておられる。この面白さは、実際のエッセイを読んでいただきたいのだが、愛子先生は次のように書かれている。


~(前略)そもそもあの話のおじいさん(”ヨイおじいさん”ということになっている)、あの人は何を職業にしている人か知らないが、どうも話の具合ではあまり働き者ではない様子。雀ナド可愛がってノソラノソラと日を送っている非生産的な男のように思われる。

 おそらくおばあさんは、乏しい家計のやりくりに必死で、糊などもお釜の底にくっついたご飯粒を一粒あまさずかめに貯めておいてやっと作ったものであろうから、それをなめた雀が憎らしいのは当然である。

 ついカッとして雀の舌をチョン切ったからといって、やれ残忍だ酷薄だと咎めだてするのはあまりに可哀想だ。もとはといえばおじいさんの甲斐性なしがいけないのである。~(『楽天道』より抜粋)


という前提でこの物語を新解釈されるのである。


この考察に私は目から鱗がポロポロとはがれた。「昔話・舌切雀」のことをそんな風に考えたことなどなかった。


言われてみれば、その通りだ。何の理由もなく平然と雀の舌をチョン切るような猟奇的なオンナであれば、そんなに雀を可愛がるようなオトコは、そもそも夫婦にならないか、次第に猟奇的な性質に気づいて夫が逃げだすなどして短い結婚生活のうちに終わっているだろう。お互いにオジイサン、オバアサンになるまで連れ添っているということは、絶妙なバランスがとれた夫婦であった考えるのが妥当である。


ほかのエッセイも「なるほど~」と深く感じ入るものばかりである。同時に30~40年前と比べればテクノロジーが進歩し、生活のスタイルは変化したものの、人間の本質というか精神的には私達は何ひとつ進化も洗練もされていないのではないか、と思った。


むしろ、テクノロジーの進歩に支えられている分、弱体化している可能性も否めない。


本書は現代においては「予言の書」なのである。30~40年前に書かれたということを肝に銘じて読むことでより深く感じ入ることができると思う。


さて、冒頭で「生産性のない話をするならば楽しい話をしたい」と書いた。とはいえ、私も愚痴を言ったりもする。昨日も人生の半分以上の付き合いになる親友に「こういうことがあってね~」と愚痴っぽい話をした。

しかし、先ほど気がついた。私たちの会話はお互いの気質について、ある種の分析をするのが常なのである。慰めではなく分析。この違いが私達の友情の所以なのではないかと思った。

この分析によって、自分でなんとなーく『今度からはこうしよう』というような解決策につながるアイデアが浮かぶ。


客観的な視点で愛を持って意見述べ、互いの意見を交換できる。


客観的な視点からの意見を自分への批判と受け止めてしまう。


この違いは紙一重である。けれど、大きな違いでもある。根底には「相手への信頼」があるかないか、ということなのだろうけれど。

同じ出来事でもどう受け止めるかによって結果が変わる。そして、それは自分で選ぶことができるのである。


人間が何に悩み、迷い、憤りながら生きるのか。そして、どうやって自分の人生を生きるのか。その本質は少なくともこの30~40年間、何も変わっていないのだと私は『楽天道』を読んで思ったのだった。佐藤愛子先生の著作は私にとって、人生の教科書のようである。












栗原貴子のでこぼこオンナ道

栗原貴子/編集・ライター、コピーライター フリーランス歴23年。広告、宣伝、啓蒙につながるクリエイティブ制作、コピーライティングが得意。2019年より きもの伝道師 貴楽名義で着付けパーソナルレッスンを中心に活動開始。きもの歴は四半世紀越え。