「自己愛」とは用法用量を間違えると副作用が起きる、”劇薬”なのです。

こんにちは。栗原貴子です。

チョコレートは「カカオ豆」から作られるけれど、この「カカオ豆」は殻がとても固く、中身は「皮をむいたライチ」みたいなのが「とうもろこし」風にギュッと陳列しており、けっこう不気味。チョコになるまでに必要な工程もたくさんあり「よくぞ、コレを食べられるモノだと発見してくださいました」という代物のひとつである。「食べられるということ」を発見した、大昔の方々には感謝してもしきれない。チョコレート好きとしては、未来からありがとう!!!の気持ちをお伝えしなくてはなるまい。

鎌倉の円覚寺近くのショコラティエでいただいた感動作です。


前回、「自己肯定感<自己愛」というバランスの欠如が「モヤモヤの正体」であったことを書いた。


そのあと「自己愛」という言葉はふんわりとしているからか、様々な解釈が存在するワードであるな、と気づいての続きです。


自己愛が肥大しすぎると「自己愛性パーソナリティ障害」という状態になる。

気になる人はググってみてね。


モラハラやパワハラをする人には、この症状の傾向があるな、と個人的な観察から思う。ただ、症状はあっても「自分はおかしい」と気づいて診察する人がめっぽう少なく、診察を受けたとしても治療に専念する人も少ないことから、臨床的なデータに乏しいという特徴がある。


つまり「パワハラはいけません! やめましょう!」という啓蒙をいくらしたところで、当の本人は「何がいけないのか」を症状故に自覚できないため、残念ながら啓蒙が実を結ぶことへの期待は薄い。


自己愛が肥大した結果、ハラスメントの被害者になるパターンもあり、私自身がそちら側だった立場から、被害者タイプの人は


①「かわいそうな私」

②「どうせ私なんて」

③「私が我慢すれば丸く収まる」

④「どうして私ばかりこんな目に遭うの」

⑤「また言われたくないから、先回りして行動しよう」

⑥「よくない結果になるのが怖いから、何もしないでいよう」

➆「評価してもらいたいから、頑張ろう」

⑧「頑張ったのに、評価してもらえなかった」


思いつく限り、こんな思考回路になりやすい。


そして、この思考回路のループを日々、繰り返している。


その結果、「被害者タイプ」の人の自己愛はもっぱら「自分が被害者であること」に意識が集中し、そんな自分を「守ろう」とするために発揮される。


表面的には「気の利いた行動」に見えることも多々あり、実際、よく気が付く人でもある。


しかし、その「気の利いた行動」は「みんなのために」というよりも、じつは「保身」が原動力になっている。だから的外れだったり、タイミングがズレていたり、過剰だったりして「加害者タイプ」をイラつかせる。


一方で四六時中、「気の利いた行動」をすべくアンテナを張り巡らせているつもりでも、人間だもの。漏れが生じることもあって、その漏れたスキを加害者タイプの人に責めたてられる、という傾向もある。


加害者タイプの人も被害者タイプの人も共通しているのは「人の目」や「人からのアクション」ばかりを気にしているということ。


簡単に言えば「愛しているなら、〇〇してくれるはず」というような激しい思い込みに由来するのだけど、現代を生きる私たちはあいにく、日々、忙しい。突発的な事態に見舞われると優先順位が入れ替わるのが「生きている」ということでもある。


電車の中で腹痛に見舞われているときに、お年寄りに席を譲れるか?


といえばNOである。


ところが被害者タイプの人間は、腹痛であっても席を譲ろうとしてしまう傾向がある。そのお年寄りに感謝されることを期待して。感謝されれば自分の腹痛が治るのでは? と無意識のうちにそんなことまで期待している。


ところが、腹痛に脂汗を流している被害者タイプの目の前に立っているお年寄りは、よりにもよって加害者タイプであるのがセオリーである。あなたの額を伝う脂汗や不自然な前かがみの姿勢など目に入っていない。


「席を譲るのが遅い!!!」

と大声を出し、お礼も言わずに座るのである。

被害者タイプの人はここで、大いに傷つく。


加害者タイプの胸の内は想像だけど、「席を譲られる」という行動で「自分が敬意を払ってもらっている」と実感できるのだろう。つまり「席を譲られない」ことは「敬意を払われていない」ことを意味する。自分に敬意を払わない、けしからん! という思考回路がぐるぐるとうずまき、頭がいっぱいになっているのだと思う。


ここに、自己肯定感と自己愛のバランスが保たれている人がいればきっと、こんな風に感じるだろう。


何やら挙動が不自然な人に気が付き、

「お腹痛いのかな? あの人?」

と額を伝う脂汗に目が留まる。

苦しみながらも席を譲ろうとしているのを見て、

「お腹が痛いのなら無理して席を譲らなくても」

そんな風に思う。

そして、苦しみつつも席を譲り文句を言われている様子に

とりあえず、

「具合が悪そうですが、大丈夫ですか?」

と声をかける。


「大丈夫です」と言われても、返事がなくてもなんとも思わない。

どう応じるかは、その人の自由だから。


(でも具合が悪そうな人の「大丈夫です」を信じてはいけない。本当に具合の悪い人はオウム返しに答えている場合もあるので「どこが痛いですか?」とか具体的に答える必要のある質問をする必要があるのだけど、ここではあくまでも「たとえ話」なので詳しくは割愛)


要するに、過剰な自己愛が結果として「自分で自分を痛めつける」方向に作用してしまうのだ。


自己肯定感と自己愛のバランスがとれていれば「自分で自分を痛めつける」ことはないし、その場で声をかけることができるので「あの時、声をかけた方がよかったのかも」などと後でクヨクヨと考えることもしない。「大丈夫です」とマイルドに拒絶されたとしても「私ったら余計なお世話しちゃって」と反省もしない。「大丈夫でよかった」と思うだけだ。


自己愛というのは、用法と用量を間違えると、とんでもなく副作用の大きい劇薬のようなもの。

だから。


自己肯定感=自己愛


の状態を保つバランスが大切なのです。


冒頭でチョコレートのことを書きましたが。

固い殻、不気味な実の奥に古くは「薬」として重宝されていた、今ではおいしいチョコレートが隠れていたなんて。

まるで人の心のみたいと思うのです。


今日も読んでくださり、ありがとうございました。

みなさまの毎日にププッと笑顔があふれますように♪





















栗原貴子のでこぼこオンナ道

栗原貴子/編集・ライター、コピーライター フリーランス歴23年。広告、宣伝、啓蒙につながるクリエイティブ制作、コピーライティングが得意。2019年より きもの伝道師 貴楽名義で着付けパーソナルレッスンを中心に活動開始。きもの歴は四半世紀越え。