人との”ちょうどいい距離感って?”を考えさせられる今日このごろ。

自分がまったくブログを書いていないことは、自覚していたが最新の記事が3月6日の日付で月日の流れの速さに驚いた。この3か月、私が何をしていたかというと『お互い、ちょうどいい距離感での人との交流とは? に思いを馳せる日々』を過ごしていた。


『お互い、ちょうどいい距離感での人との交流とは?』などと書くとたいそうなテーマに感じるが、正直に述べると『私の好みじゃない交流&距離感』での人間関係が複数、発生して戸惑っていたのだ。


すべての人間関係は「好みの交流&距離感」を尊重し合える者同士、あるいは許容し合える者同士であれば快適さも信頼関係も増し、そうでない場合はうまくいかない、ということなんだな、というのが現時点での私の結論である。


「貴子さんが〇〇に行かれるのなら、私も行きます」


という連絡を女性の知人から立て続けにもらった。「〇〇」とは、近所の私がぶらりと立ち寄る店のことである。

正直に言おう。

仕事でなら、誰かの行動によって自分の予定を決める、という判断は多いにあるだろう。例えば「〇〇さんの資料作成が木曜日中に完了するのであれば、私は金曜の午前中にチェックできますよ」のようなケースである。


しかし。

私が「ぶらりと立ち寄る」ぐらいの行動に対して「あなたが行くなら、私も行くって?」と思ってしまうのだ。


「ぶらりと立ち寄る」というのは「時間と気分が許せば行く」ということである。時間はあっても、雨が降ったりして気分が乗らなかったら行かないかもしれないのである。私にとって、自由、気ままな行動なのでそこに「あなたが行くなら、私も行く」と言われると、何とも言えない残念な気持ちになってしまうのだ。


いい大人なんだから、しかも完全にプライベートなのだから。「誰かの行動に自分の行動をゆだねるな派」の私とは、異教徒レベルで相容れないのである。


この「誰が行くのかを知った上で、自分が行くかどうかを決める」というタイプは、案外、多い。そのこと自体は否定しない。メンバーが誰か? は「誰かの行動に自分の行動をゆだねるな派」の私であっても、気にならないといったらウソになる。


とはいえ、誰が参加するのかな? は気にはなるが、「メンバーによって出欠を決めたい」ということを大っぴらにするのは、「めんどくさい人だなあ」と思われること間違いなし、の言動だ。特に、幹事役の人のところには、その手の連絡が複数舞い込んで、その対応に追われる、ということも知っている。幹事という役割を担ってくれている人に、余計な手間をおかけするのは避けたい、という気持ちから、問い合わせを慎んでいる人も少なくないと思う。

この手の「めんどうくさい問い合わせ」で、幹事をうんざりさせる問題を解決すると同時に『聞いたら悪いな』と慎んでいる人の気持ちにも寄り添うツールとして開発されたのが”調整さん”なのだろう。


事実、コロナ以前、わりと大人数に声をかける催しで”調整さん”で出欠確認を取ったところ「誰が参加するの?」という確認のためだけの連絡が皆無だった。”調整さん”開発者の方、ありがとうございます! 


話がそれたが前述した「貴子さんが行くなら、私も行く」という連絡には、もれなく「貴子さんとお話したいので」という言葉も添えられていた。これもまた、私を微妙な気持ちにさせるのである。


なぜなら……。辛辣であることは重々承知しているが、私にはその方ととくにお話したいことはない、のだ。


「この人とは距離感をつかむのが難しいな」と感じることがこの頃、増えてきたなと感じる。同時に、私自身も誰かにとって快適とは言い難い距離感で接してしまったこと、接していることがあるんだろうな、とも想像している。SNSやチャットで連絡をすることが一般的になったことも「距離感問題」の一因なのだろう。


ただ、「心地よい距離感がお互い、違うよね」という関係は「私たち、気が合わないわね」という証でもあるので、プライベートの関係なら無理して親密になろうとするまでもない。テクノロジーがどれだけ進歩しようとも、ご縁のある人とは細く長く続くものだし、ある一時期、疎遠になることだってある。結局のところは、連絡ツールの使い方に影響する「気持ち」の問題であることは変わりない。


昭和の時代だって、電話や手紙を一方的にかけ続けたり、送り続ける行為はホラーだったし。LINEだって無料だけど連投はホラーだ。それなりの長文を連投しがちな人は、心の中でタイムスリップして1メッセージをはがき1枚に換算して、貯金箱に63円ずつ入金するシステムを採用してみるとよいと思う。

モダンガールに囲まれて (目黒雅叙園にて)


大正時代のタイムスリップ体験は実に、優雅だった。

目黒雅叙園でのこの催しに誘ってくださった和美さんと、大変たのしい時間を過ごしたのだが私はずっと「竹久夢二はクズ男」という話をしていた。和美さんも夢二のクズっぷりに同意してくれてうれしくなって、「クズエピソード」を語り合いながら、作品に感服していた。とくに、グラフィックデザイナーとしての天才的なバランス感覚とセンスにただ、圧倒された。グラフィックデザインのメソッドが確立されていたわけでもない時代に、夢二はフォントも含めてすべて手書きでやってのけていたのだ。


夢二の作品は大衆の、こと婦人の心をわしづかんで人気を博し、そして今なお、つかみ続けている。


が、しかし。


そのプライベートは現代ならば世界中の婦人が眉をひそめ、心が離れていくであろう生きざまであった。次男が生まれた年に、妻と別居して別の女性と暮らし始めている。「妻と不倫相手とオレ」のスリーショットの絵も展示してあった。良き夫・父イメージが一瞬で崩れ去った某俳優と不倫相手の「インスタ匂わせ投稿」などかわいいものだ、と思えるほどの大胆さ。が、そもそも夢二は「良き夫、父」のイメージで売ってなかったので、世間は誰も夢二に「良き夫・父」など期待してなかったともいえる。


私生活はそんなありさまでも、商業ベースの仕事をこなし続け、生涯を閉じた夢二は「人との距離を測ること」にかけても、天才だったのだのだろうな、と思う。


どちらか一方が『距離を詰めたい』と思っても、相手にとっては『今は、いろいろ忙しいので距離を詰める余裕がない』というように「タイミングが合わない」ということだって起きる。そうした間合いを見極めながら、タイミングを見逃さない才の有無こそがすべての人間関係における「モテる秘訣」なのではないか。


いつものように、話があちこちに飛びまくってしまったが「貴子さんが行くなら、私も行く」と言われると、心身ともにディスタンスを取ってしまうんだな私、ということをあらためて実感している今日この頃なのでした。

栗原貴子のでこぼこオンナ道

栗原貴子/編集・ライター、コピーライター フリーランス歴23年。広告、宣伝、啓蒙につながるクリエイティブ制作、コピーライティングが得意。2019年より きもの伝道師 貴楽名義で着付けパーソナルレッスンを中心に活動開始。きもの歴は四半世紀越え。