お仕事モードになかなか「起動」ができないけれど私の中の「ギスギスの種」が消えました。

こんにちは。栗原貴子です。

1月4日、5日ごろに仕事始めを迎えた方々にとって「明日から3連休ですね」というのは酷だなあと思う。パソコンでもスマホでも「起動」にはある程度、時間がかかるものであり、人間もまた然り、である。このようなカレンダーならば、いっそのこと10日から仕事はじめでもよかったのではないか。よくないのか。よくわからない。


フリーランサーの私は御用納めも仕事始めも、いってしまえば「自分次第」である。


今年は4日ごろからボチボチと請求書を書いたり、メールの返信をしたりと事務仕事をしていたつもりだが「いいお天気ね」と空を見上げたりする時間も長く、いい働きをしていたとはいいがたい。

私の状態を表現するならば、おそらくこんな感じだろう。

会社員ならば、仕事始めの日にとりあえず出勤して「あけましておめでとうございます」「今年もヨロシクお願いします」的なご挨拶をして、「おとそ気分が抜けないね」などと言い合いながら、ランチタイムを共にするなどして、徐々に「起動」していくのだろうな、と想像している。


しかし、私は「あけましておめでとうございます」という相手もいないし、そもそも、出勤もしない。ベッドから徒歩10歩以内に、仕事用のデスクがあるのだ。


よって、なかなか起動できず、おとそ気分を引きずることになる。


6日の午前中に打ち合わせが、夕方から映画の試写会があり「外出するという意味においての仕事始め」は6日ということは決まっていた。5日の夜はその準備をしていたのだが、突如「!」となった。


私は、何か

重大なことを

忘れているのではないか。


という思いが脳裏をかすめる。

手帳を改めるものの、忘れているようなことはなさそうだ。念のため、打ち合わせ用のノートを開く。あ、あった。こ、これだ!!!!!


打ち合わせ用のノートに記されたコンテ案の提出日を手帳に転記しそびれていた時点で、こうなることは決まっていたのだ。なんのために転記するかと言うと、記憶を定着させるためじゃないか。なぜ、私は転記を忘れたのだろうか。記憶をたどるが、去年のことを思い出すのは至難の業だ。お正月に何があったのだ? というぐらいに私は「リニューアル」されていた。


どうして忘れたかなどはどうでもいい。

私はマッハで仕事をした。「本日、お送りします」というお約束だったコンテ案をパワーポイントで作成する。パワーポイントなんて大の苦手だ。こんなもの、世の中から消えてもかまわないと思う。手書きでいいじゃないか。私の手書きの企画書やコンテはクライアントからも評判がよかったけれど、あれはお世辞だったのだろうか。なんとなく「パワポで作ってね」ムードに押し流されたが、手書きのコンテなど今や伝統工芸品であろうに。


などと思いながら忙しなくマウスを動かす。


ところがである。


普段の倍速で

できたのである。


やっぱり私は「リニューアル」されていたのだ。急にデジタル通になったような気分。


とはいえ、すでにお約束は過ぎていた。うっかり日にちを間違えましたとのお詫びと共にメールする。こんなうっかり、かつての私はほとんどしなかった。それはそれは、強迫神経症的だと自分でも思うぐらいの「しっかり」ぶりであった。たまに「うっかり」すると、非常に落ち込んだ。その落ち込みとそんな自分が面倒くさいので「しっかり」してきたのだ。


しかし、

驚くことに。

昨夜の私は

「ま、いいか」と

思ったのである。


「リニューアル」されすぎでは? とも思ったが、仕方がない。「ま、いいか」なのである。翌日の打ち合わせが午前中の予定なので、床に入った。


翌朝は早々と、といっても午前8時起床。10時に自宅を出る予定で、準備をする。シャワーを浴びてメイクをし、服を着替え朝ごはんを用意しているとき、電話が入る。


打ち合わせが別の日になったという連絡であった。


午前中に打ち合わせ、夕方から試写会という予定だったので一度、帰宅するというロスタイムが発生しなくなった。ありがたいことだ。


とかく、ギスギスしがちな世の中だと常々、思っていたが「ギスギスの種」のようなものが私の中にあったのだなと思う。恐らく、いろんな人の中に「ギスギスの種」が多かれ少なかれあって、それがぶつかり合うから現実の現象がギスギスするのだ。


ギスギスの種は

〇〇〇せねば、とか。

△△△すべき、とか。

そういう感じの

ものが多いのだと思う。


「ギスギスの種」がなくなると、それが現象にも現れてくる。「嫌なこと」に遭遇しなくなるし、遭遇しても「それは嫌です」とかはっきり言えるようになるし。不可抗力だなということは「ま、いいか」と思えるようになる。それまで、しつこくやっていた自分に対する「ダメ出し」も「ま、いいか」により激減するのでいつも爽快である。


たぶん、

「ギスギスの種」が

呼応し合って

ギスギスした

現象に

なるんだろうな。


私の「しっかり」は「ギスギスの種」によって維持されていたから、「しっかり」することで自分の安心を得ることはできても、自分自身はツラいことが多かった。すると「どうして私ばかりこのようなツラい思いをするのか」的な、被害妄想に包まれるようになる。ツラい思いを避けようと、ますます「しっかり」し「ギスギスの種」を増やすことになる。


「しっかり」しようとしたり、「〇〇せねば!」「△△すべき!」と自分を追い詰めても、ただ苦しいだけだったのだから。ならば、たまに「!」となったとしてもいいんじゃない?と心の底から思えるようになったのでした。


今日も読んでくださって、ありがとうございました!

栗原貴子のでこぼこオンナ道

栗原貴子/編集・ライター、コピーライター フリーランス歴23年。広告、宣伝、啓蒙につながるクリエイティブ制作、コピーライティングが得意。2019年より きもの伝道師 貴楽名義で着付けパーソナルレッスンを中心に活動開始。きもの歴は四半世紀越え。