ライターは見た!「盛った先には幸せなし!」の法則。

こんにちは。栗原貴子です。

先日の記事で「盛った先に幸せはなし!」ということを書いたのですが、今日はそのお話を書きますね。


ここでいう「盛ってる」というのは容姿ではなく「実力」「能力」「魅力」のような”目に見えない要素”を「盛る」ということです。


さて、ふと気が付けば、4月1日にフリーランスライター19年目に突入しました。その間、いろいろな方に取材をして参りました。私はどちらかといえば医師や弁護士といった専門家の方や経営者や各種コンサルタント的な方のインタビュー経験が多いのですが、作家、芸能人といった著名人・有名人のお話も伺う機会もございます。


そういう中で


この人

かなり

盛ってた?


という事態に遭遇することがしばしば、ありました。


マスメディアからの取材ということにおいては、マスメディア側も相手が「それなりのコメントができるであろう」ことは事前にチェックします。過去に掲載された記事や著作、公式サイトなど閲覧できるモノを調べた上での「取材依頼」なのです。しかし、実際に会ってみると


記事の

コメントの文章、

あれは

ライターさんと編集さんの

努力のたまものだったのね!


ということが、稀にあるのです。


端的に言ってしまえば「取材をしてみたが、たいしたコメントが出てこない」と取材中にハタと気づくわけです。こちらは、あらかじめ質問内容を考え、先方にもお伝えしているので予定にない質問はしていない。なのに、想定内の質問に対するコメントさえ未熟というか「プロならではのさすが感がない」わけです。


私と編集さんチェックした過去の記事は、そのときのライターさん、編集さんが作り上げた内容であり、私たちはその記事を見て「この人に取材しよう」と決めていたわけで。「盛られた記事」を真実と思ってしまったことがそもそもの間違いなのですが、同業者として思うのは『この記事を書いた人たちもまた、同じように取材時にたいしたコメントが得られずに苦労したのだろう』とお察しするのでした。


かくして実力以上の成果が世に知れ渡るわけで、それが連鎖してA誌の記事を見たB誌が取材を申し込み、さらにC誌も……という風に連綿と続いていくのです。


しかし、同じ媒体から二度目のオファーがないということは「この人に話を聞いても誌面が充実しなかった」ということで編集部が懲りたという証でもあるので、この連鎖はある程度のところでストップします。


では、どうして「盛っている人」がメディアに取り上げられるようになってしまうのか。


その人自身が「自分を盛って売り込んでいる」から。


その「盛り」を信じて取材をしたら「あれ?」ということになって、結果的に総力を挙げて記事を書いたのが最初のA誌。その記事を見たB誌が~とつながっていったわけです。


「盛って売り込む」ことで瞬間風速的な結果は出せますが、継続することはまずない。


なぜなら「盛っている人」は自らを盛ることには熱心で「自分が脚光を浴びる」ことが主目的だから。そして、マスメディアの取材陣には「ちゃんと記事にしてくれるんでしょう?」ぐらいに思っていて脚光を浴びたら目的は達成。その先に「自分が世のため人の為に役立つ」という意識が希薄なのです。


こうした「盛る」行為も、今やSNSやブログで個人レベルでできるようになったために、様相が少し変わっています。


以前ならばマスメディアの中での「盛っている」であり、ライターや編集者、カメラマンなどのプロの技術がその「盛り」を「誌面を整えるために」協力したわけです。

けれど、一時的な協力ですし、入れ代わり立ち代わり第三者の視点が混入しているので「本人の実像」はブレていく。そのブレが次第に「なんか、この人ってどうなの?」という「怪しさ」みたいな印象につながっていっていました。


しかし、個人レベルの「盛り」は第三者の介入がないためにやり放題です。しかも、自分で行えるため嗜好にも個人の好みが反映されるから方向性は一貫しています。

そうやって自分を「盛った」結果、どうなるか。


本当の「自分」を見失う

「素」の自分をさらけ出せなくなる

本当の「自分」を好きじゃなくなる


といった現象が起きます。

しかもかつてのような「メディア向け」ではなく「自分のリアルな暮らし」の中で、日常でそれが起こってくるのです。


最初の「盛り」のきっかけは、「感じのいい人だと思われたい」ぐらいの軽い気持ちなのだと思うのです。でも、それによって周囲に「認められた」という経験を重ねると、「盛り」がクセになります。SNSの場合、「いいね!」などによって反応を数値化できるので結果が分かりますのでなおさらです。


「認められたい」という気持ちが強くなればなるほど、「盛り」はエスカレートしていきます。そして、後に引けなくなったり「盛っても結果が出ない」ということに苦しむようになってしまう。


「盛り」に走る人がいる一方で「自己評価が低い」人もいます。自己評価が低い人は自虐や卑下に走りがちなのですが(私はどちらかというと後者でした)どちらも「本当の自分」の存在感を自分で認められなくなっていき、自己肯定感が低くなるという点では同じなのですよね。


「盛り」が上手な人は「盛り」によって他者からの評価を高めることがある程度までは可能。でも、いつか「盛り」が通用しなくなるときがきます。さらに「盛る」ことで延命を試みますが「盛り疲れ」が起こります。


一方、自己評価の低い人は「盛り」タイプをうらやましく思います。自分に「盛る」という発想がないので「あの人がじつは盛っている」とはなかなか気づかない。だから、うらやましさは募る一方です。


「ありのままで」に多くの人々が惹かれたのは、等身大の自分で生きることへの渇望だったのではないかと思うのです。盛りもせず、卑下もせずに「こんな自分ですが、なかなか良いとおもいまーす」ということで肩の力を抜いて生きることへの憧れ。けれど、「等身大の自分でいる」ということは、大変に勇気のいることでもある。なぜなら「等身大の自分ではダメだ」という思いから「盛る」や「卑下」という形で無意識のうちに「キャラクターづくり」をしていたのだから。


ブランディングっていうと「盛る」方向で考えちゃう人が多いのだけど。


これからの時代のブランディングは「似合う装いを見つける作業」のようなものだと私は考えています。

その似合う装いを着こなすためには、背筋を伸ばしたり、髪型を変えたり、似合うメイクをしたりという「整える」ことが必要であって。「盛る」といってもその程度のこと。


それは、企業も商品もサービスも個人も同じなのですよね。


私は長いこと第三者目線で自分以外の人や商品、サービスをブランディングしてきたくせに(そして、それはちゃんと結果を出していたのですよ)。

自分自身のことはちゃんとブランディングしきれていなかったという。


スタイリングした人は

素敵になるのに、

なぜか自分の服装は

いつも超ダサい

スタイリスト


みたいなことになっていたのです。

それは「素の自分をあまり肯定していなかった」からなのですけれどもね。

今は、それでも19年も続けてこられてたってすごくないか? と思いますのよ。そして、そういう感じでもこれまでの時代は「やってこれられた」のです。


でも、これからの時代はそうじゃないな、というのを持ち前のセンサーでキャッチしておりまして「私も超ダサい服着てる場合じゃないな」って思っています。


今日も読んでくださりありがとうございました♪

みなさまの毎日に「ププッ」と笑える瞬間があふれ出しますように。




















栗原貴子のでこぼこオンナ道

栗原貴子/編集・ライター、コピーライター フリーランス歴23年。広告、宣伝、啓蒙につながるクリエイティブ制作、コピーライティングが得意。2019年より きもの伝道師 貴楽名義で着付けパーソナルレッスンを中心に活動開始。きもの歴は四半世紀越え。