人間の世界も腸内も善玉菌、悪玉菌、日和見菌の集合体であり、人は体内に「社会の縮図」を持っていて、快適な毎日を送るためには「日和見にならない」ことが大事なんだなと思う今日この頃。

こんにちは。栗原貴子です。

近所の桜が葉桜になり始めていて「葉桜の美しさ」にシミジミしておりました。これから桜吹雪が舞い、そして新緑が芽吹いてきますね。桜吹雪が舞う中で佇んでは『ザ・ベスト10の演出のようだ』と思い、スター気分を味わう世代です。

物理や化学が苦手だったわりには、医療系の取材経験が豊富な私であります。一時期、やたらと「腸内環境」にまつわるお仕事が目白押しだったことがありまして、人々の大腸にまつわる「お悩み」を真面目な顔して会議室で議論しまくっておりました。


腸内にはざっくり分けて「善玉菌、悪玉菌、日和見菌」がおりまして、「善玉菌が優勢である」ことが快適な便通に不可欠な要素でございます。よってヨーグルト等で「善玉菌を補う」ことが重視されるわけですが、この腸内細菌は日々、排泄されてしまうため補い続けることで良好な腸内環境をキープすることが大切なのです。


あるとき、私は腸内細菌のスペシャリストである医師の元へと取材に参りました。

そして、ふと「先生、善玉菌と悪玉菌とはどういう違いがあるのでしょうか?」というような素朴な疑問を口にしたのです。すると、そのドクターは


菌に善も悪も

ありません!

人間にとって

都合のよい菌を

善玉菌と

呼んでいる

だけです!


「100%菌の立場」でコメントされて、私は深く恥じ入ったのでした。


「善」と「悪」の判断は「人間の都合」で決められているというのは、菌に限った話ではありません。多くの事象がそういう風に「人間の都合」や「社会通念」「常識(といわれるもの)」などによって決められておりますものね。


話を腸内に戻しますと、いわゆる「善玉菌」「悪玉菌」よりも圧倒的に多いのが「日和見菌」という存在です。日和見菌、そのネーミングのごとく「優勢な方に傾く」という性質を持っております。浮遊票みたいな感じです。なので、この圧倒的多数の「日和見菌」を「善玉菌」の仲間に取り込むことが「快適な腸内環境」を維持するためには不可欠なわけです。


それって私達、人間界の「ありよう」にも通じることであって。


例えば、今、結婚する人が減ってきているわけですが、これって「結婚する人」が圧倒的に多数だった状況が変化してきたってことです。この変化によってかつては「結婚していないなんて、どこかおかしいに違いない」的な差別的視線を浴びまくった時代から、「結婚しないという選択肢もアリだよね」と市民権を得てきました。恐らく、多くの人が「べつに、してもしなくてもいいんじゃない?」と内心思っていたものの、なんとなく口にはできなかったことが、口にしやすくなった、ともいえるのだと思います。


社会も「おひとりさま」に優しくなりました。母によると昔は「女性のひとり客の宿泊お断り」という旅館やホテルが多かったのだそうです。なぜなら、


女性のひとり客=訳アリ


というのが定説であり、女性のひとり旅は「死に場所を求めてのひとり旅」であり「自殺でもされちゃたまらない」のでお断りだったそうです。それ以外にも「危ない」とか「万が一のことがあっても責任持てない」といった理由もあったそうですけれども。

また、「女性の定年30歳」という時代もあったので生きる手段として「結婚」が必要であったという側面もあります。

しかし、今は女性がひとりでもバンバン、ホテルや旅館に宿泊できるわけです。出張もバンバン行きますので「女性がひとりで新幹線に乗っていても怪しまれることなんかない」わけです。時代の変化とともに人々の意識もまた、このように変化していっているわけですね(かつては、女性のひとり客には、車掌さんがそれとな~く様子を伺ったりしていたらしいですよ)。


時の移り変わりとともに。価値観も少しずつ変化していくものです。


そういう世の中にあって、今の時代「日和見菌」のごとく、その場の雰囲気に流されたり、はっきりと主張する人の言うことに、ひよってしまう生き方が「ツラく」なってきているように感じます。なぜなら、価値観の新旧交代が猛スピードで進んでいるので、様々な意見を持つ人が入り混じって同じ時代を生きているから。



腸内環境でいえば「善玉菌が優勢のときと、悪玉菌が優勢のときとでは態度を変える」わけですからブレブレです。自分が「何菌」なのかわからなくなりそうです。


さらに「善玉菌にひよっている」ときは腸の持ち主に快便をもたらしますが、「悪玉菌にひよっている」ときは腸の持ち主に「お腹急降下!」とか「もう5日も音沙汰なし」という脂汗をたっぷりかかせるような事態を起こすわけです。日和見菌の立場になると、あるときは喜ばれ、あるときは苦しめるなんて「菌」としてのアイデンティティーもブレてしまいそう(とはいえ、あっさりと体外に排出されちゃうんだけども)。


なんてことを考えてみると。私達の体内には「社会の縮図」がギッシリと詰まっていて。


最近では

腸内フローラ


なんてファンシーなネーミングで呼ばれております。


かくいう私も日和見菌のごとく生きて参りました。「そうなんだ!」と様々な人の意見を素直に取り入れるのはもちろん、「こんな風に思う自分がダメなんだ」と反省してみたりと、それはそれは忙しかったものです。そういうことを繰り返しているとだんだんと「もともと日和見発想だったくせに、あたかも自分の考え」であるかのごとく、錯覚しはじめてしまう。


人は人、自分は自分。


ということは頭ではよーく分かっているくせに「私は人は人、自分は自分、と思っているわ」と言いつつ「ひよっている」ことにすら気づけなくなってくるのです。ただ、そういうときって


他人と自分を比較してしまったり。

人の意見や提案にすぐに迎合したり。

自分が我慢すれば丸く収まると思っていたり。


そういう傾向があったものです。


もちろん、仕事もプライベートもすべての人間関係において「満場一致」ということはありませんから、誰かが譲ったり、妥協したりというのは避けられません。仕事の場合「大人の事情」ってものもありますからね。


合理的判断を重んじるのか。

その場のメンバーで誰かに決定権をゆだねるのか。


時と場合によっても変わってきます。

そんなときでも「私はこう思うのですが、どうでしょうか?」と自分の意見や考えを表明した上で「ご相談」という形にもっていって結論を出すようにすれば、場の空気も悪くならないし、問題がないということに気が付きました。


今日は中華にする? イタリアンにする? みたいな些細な事も含めて。


とくに女性は、自分の意見や考えを述べるということにおいて、社会では「生意気だ」とか「協調性がない」などと批判されがちな時代を生きてきました。それは「女性のひとり旅=訳アリ」な時代からの流れで「女性の社会進出」ということにおいて価値観の揺らぎがあったからだと思います(今も揺らいでいるけれどね)。

その影響から「自己主張しないほうがいい」と思い込んでいた、という人は少なくないだろうなと思うのです。


善玉菌、悪玉菌というと善悪の白黒はっきりみたいな字面だけれども、大切なのは「快適さ」ということだと思うのです。快適にするためにはどうしたらいいの? と考えたとき、私達人間のカラダは「善玉菌が優勢」であったほうが「快適である」ということで、細菌のスペシャリストの先生がおっしゃるように、菌そのものには善悪はない。人間の腸内という場所で、人間にとってどのような役割を果たすのか、という意味での「善」「悪」なのですよね。


野生動物が人里に降りてくる問題、にも通じますけれども。

人にとって都合が悪い=害獣


というだけで。イノシシも鹿も熊もサルも、存在自体は何も悪くないのにね。


とはいえ「G」には気絶寸前の恐怖を覚えるワタクシですので、あまり偉そうなことは言えませんが。「Gも地球の仲間よね」と達観できるようになれたらうれしいです。


今日も長々と書いてしまいましたが、「誰かにとっての都合の良しあし」や「社会にとっての都合の良しあし」みたいなことに振り回されていると「真に快適な毎日」は送れないよね、ということを言いたいのでした。


読んでくださりありがとうございました♪

皆様の毎日に「ププッ」と笑いがあふれますように。
























栗原貴子のでこぼこオンナ道

栗原貴子/編集・ライター、コピーライター フリーランス歴23年。広告、宣伝、啓蒙につながるクリエイティブ制作、コピーライティングが得意。2019年より きもの伝道師 貴楽名義で着付けパーソナルレッスンを中心に活動開始。きもの歴は四半世紀越え。