何かを成し遂げた人たちは「幸福感」を大切にしながら「自己完結」しているのでした
こんにちは。栗原貴子です。
2017夏の「思い出フォト」その3
今回は前回の続き、「何かを成し遂げる」ということ、そのものの定義というか意味が、今までとはまったく違うということについて書きますね。
前回の記事ではそういう人たちが「心と体を大切にしてきた」ことを書きました。
まだお読みでなかったらコチラから読んでみてくださいね。
私が取材した人たちは、結果として「何かを成し遂げた人」なんだけれども。
結果はあくまでも「目標」としての目印であり、そこに向かっていく道、つまり「日々を大切にしてきた」と振り返ります。
そして自分の心と体をよい状態で保つために「食う、寝る、遊ぶ」の時間を先に確保するなど。
先に仕事や勉強の時間を確保して、残りを自由時間にあてるといった従来型の「頑張る」とは真逆の「生き方」をしている。
以前の「ド根性論」だと「100本ノック」とか「うさぎ跳び10周」とかそういう数値目標が主流でした。うさぎ跳びに至っては「カラダに悪い」ことが証明されてすたれましたけれども。昭和の時代は「部活中に水を飲んじゃいけない」とか、死にかねない掟が「根性」や「気合」という大義名分のもと、蔓延していました。
現代の「生きにくさ」を考察すると、ド根性論をベースにした「苦しいこと」=「頑張りとして評価」という方向に突き進んでしまった結果の「今」なのかな、と思うのです。
「汗水たらして」とか「血を吐く思いで」といった形容がされる「頑張り」がどういうわけか、好感度が高かったですよね。「遊ぶように仕事をする」とか「不労所得」に対する風当たりも強かったし。
その一方で「寝ている間にコレを使うと英語ペラペラ」みたいな睡眠学習枕が通販で販売されたりして。
ホントは楽したいんだな、みんな。
っていう、矛盾がありましたけれどね。
これからの時代の生き方は何をするにしても「幸福感」がキーワードなんだなって思うのです。
自分が幸福だと感じられること、を大前提にして行動すること。
そして、その「幸福感」が「自己完結である」ということです。
努力を重ねたことの結果として、
誰かに褒められるとか、認められることを期待しない「ひとり完結」。
努力の仕方も「苦しまずにできるやり方」を自分で見つけ出していく。
そんな印象。
苦しむと「頑張った」って錯覚しちゃうから、実はちっとも成果になっていないことも多いしね。苦しまないでこなしたほうが、実になるのはあったり前なんだけれどもね。
ド根性教育を受けてきちゃった世代としては、このサラッと淡々としている感覚が
す・て・き💛
と感じるのです。
そして、ド根性教育世代であったとしても。
いまからでも、苦しまずにサラッと淡々と楽しみながら「今」を生きたほうが断然、幸せじゃん! と思う。
そして、若い世代は自然にそういう風に「生きている」のですね。
我々、オッサン、オバハン世代で幸福感が薄れてしまうのは、自分が慣れ親しんだド根性教育ベースのルールで「この世を生きるプレイ」をしようとするからなのだと思うのだけれど。
もうね、この世を生きるプレイのルールは地球規模で変わってるよ!
って、フレッシュな人たちの様子を取材を通じて知ってつくづくそう思う。
例えば、「やりたいこと」があるならば、まずは心と体を大事にするところからとか。
挨拶とか身だしなみや整理整頓、片付けといった「基本的なこと」を丁寧にするとか。
未来のことよりも「今この瞬間」に全力投球するとか。
ド根性で頑張るよりも、涼しい顔して続けられるやり方を探すとか。
「幸福感」を大事にしながら
軽やかに、一歩一歩、着実に未来に向かって歩んでいる。
そんな印象がするのです。
もしも今、古いルールと新しいルールの間で苦しんでいるならば。
古いルールブックでジャッジしてくるレフェリーに惑わされないでね。
そんなときにイラっとしたり、落ち込んだりするのももったいないから、『ああ、この人のルールブックは少しばかり旧バージョンなんだな~』って心の中でそっと思いましょう!
今日も読んでくださりありがとうございました。
みなさまの毎日が「ププッ」と笑顔で溢れますように♫
追記
パグのハンコは親友ケイコからのプレゼントです。
そして私、お帽子が好きですが、ピンクの帽子は私物ではありませんよ。念のため。
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