「終末にすみません」とメールが届く猛暑に思う「平穏無事」であることの幸福。
こんにちは。栗原貴子です。
ほとんどの方が人生初の猛暑を体験中の今日この頃。
屋外での活動が命がけ、というこの状況、低血圧族の私はアンニュイモードである。暑いと体温調節のために血管が拡張して血圧が下がる。体ってよくできているなあ、と感心している場合ではないのが低血圧族。
昨日、一昨日と自宅で仕事をしていたわりには、倦怠感が続くので昨夜、血圧計を引っ張り出して測定した。上が99と私的には不調を覚える値ではないというか、だいたいいつも100前後である。そこでエアコンの設定温度を27度から24度してみる。部屋が冷えるとあっという間に倦怠感が治った。
軽度の熱中症ってやつ? だった模様です。
アンニュイから復活して仕事をしていると仕事先の方からメールが届く。週明けまでに〇〇ください的な内容に恐縮しきっておられる。いえいえ、大丈夫ですよと返信しようとして気づいた。
「終末にすみません」
と書いてあった。
このところのアスファルトがあまりにも暑く、フラットシューズでは足が暑くて辛抱たまらん、ということで年甲斐もなく厚底サンダルを愛用している。わずか数センチでも地面から離れるだけで体感温度が全く違う。フルーツの缶詰の缶をさかさまにして作った「アレ」(正式名称はなんというのでしょう?)を流行らせた方がいい。缶は熱を伝導してしまうのか。ならば、竹馬がおススメ。
自然現象は人知の及ばぬことではあるけれど、この猛暑を招いたのは明らかに人間である。
私の倦怠感のせいで、エアコンの室外機からは熱風がさらに放出され、外気温の上昇の原因となっていることに胸が痛む。
都会はあちこちに「ささやかな緑地」「街路樹」があるのだけど、その付近ではひんやりとした空気が漂っている。ほんの少しの土と植物でこんなにも違うんだ、と実感する。
こんなに暑くしてしまった私たち人間は今、何をしたらよいのでしょうか?
そんな質問をしながら産土神社でおみくじを引いた。
「神の教」の面にこう書いてあった。
ぱっと明(あか)って消え行くような、花火信仰じゃたよりない
苦しい時にはやれ神様と騒ぎ立てる。嬉しい時にはそれ神様と拝み立てる。が平穏無事の日が続くと、ケロリと忘れて拝みもせぬ。線香花火のような信仰では駄目である。神様と共にふし、神様と共に起き、永久に変わらぬ信仰、動かぬ信仰が大切、無事の御恩を味わい知るべきであろう。
私たちは平穏無事であることを「退屈だ」「刺激がない」と不満を漏らす。もっと素晴らしい「何か」があるのではないかと、自分の「今」を嘆く。自分の望む現実を作ろうと神頼みをする。
かつて、私も神様に対してそんな態度でいた。
平穏無事であることが素晴らしいなんて、思いもしなかった。
いわゆる平和ボケ状態。
同時に、母親との関係では「神の教」にある「神」のような立場でもあった。
だから、端的に言えば「あんたらムシがよすぎないか?」という神様のおっしゃりたいことに僭越ながら共感できる。
あいにく私は神ではないので、とうとうブチ切れた。昨年末のことである。
今、やたらとテレビを賑わしている日本ボクシング協会の会長の言動に、私はさほど驚けなかった。なぜなら、言動パターンが母親と酷似。都合が悪くなるとすぐ激昂し相手を罵倒するなんて「お約束」だよ? なので、こんなにも報道されることに、当初びっくりし、あきれたのだ。ほかにニュースあるんじゃないの? と。
しばらくして報道に値するようなことなのだと気が付いてハッとした。
自分の感覚がズレていることに。
そして、こうした感覚のズレはすべての人が大なり小なり、もっていることであって。
自分の常識は他人の非常識であり、その逆もあるということ。
私なりにおみくじと某会長のことを解釈すると「あなたたち自分勝手すぎなんじゃない?」ってことだと思う。この自分勝手は必ずしも分かりやすい「派手さ」を伴うものとは限らない。
「平穏無事」であることを「当たり前」と感じてしまう感性も、神様の視座に立てば「自分勝手」である。
過去に人間がしでかしてきたことが、今、猛暑となって表れている。
それは、長年のツケを払う時期になった、ということであり。
ここでツケをしっかりと払うことができるかどうか、を私たちは問われているのではないだろうか、とそんな風に思うのです。
そして、どうツケを払うのか? はただ「平穏無事であることの御恩を味わい知る」ことなのでしょう。
メールで届いた「終末にすみません」は誤変換でも冗談でもなんでもなく。
神様からの私への伝言なのではないか? と真摯に受け止めたい、と思うのでした。
今日も読んでくださってありがとうございます。
みなさまの平穏無事な毎日に「ププっ」と笑顔があふれますように♪
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