自己肯定感<自己愛の状態だからかつての私は「モヤモヤする出来事」を引き起こしておりました。
こんにちは。栗原貴子です。
都会のオアシス。
フリーランスのライターという私の仕事は「はじめまして」や「お久しぶりです」の関係がひときわ多い。今月にはいってからは「はじめまして」と「おひさしぶりです」が目白押しで「人とのご縁というもの不思議」に思いを馳せてみたくなる。しかし、何やら日々、バタバタと過ごしていてそんなことを考えるゆとりもなく、気づけばもう11月も半ばでビックリである。
今月に入ってからのそんな日々の中で、頭の片隅で常にあることを考えていた。
「自己肯定感」+「自己愛」=持ちうる愛の総量
という方程式。方程式なんて、すごい数学が得意なんじゃない? って感じだけど、じつは赤点スレスレで高校時代「国語の成績はこんなにいい。つまり、お前は馬鹿じゃないんだから、ちゃんと勉強すれば大丈夫だ」と数学教師にしばしば呼び出された私である。
「自己肯定感」+「自己愛」=持ちうる愛の総量
「自己肯定感」と「自己愛」は常に同じ量で、バランスが取れていることが望ましい。
そして、このバランスがくずれると「モヤモヤする」ような心の不具合を自覚するようになる。
たいていの場合
自己肯定感<自己愛
というバランスの崩し方をする。
「自己愛」というのは、文字を見る限りではよさそうであるが、肥大すると「自己愛性パーソナリティ障害」と精神医学界で呼ばれるような症状となる。
自己肯定感<自己愛
の状態になると、あらわれる言動としては2つ
①威圧的、高圧的な態度でふるまう
②「私なんて……」と萎縮した態度になる
分かりやすく言うと、①は「パワハラ」の被害者、②は「パワハラ」の加害者。
アウトプットは両極端だけど心の奥底をのぞけば「似た者同士」なのだ。
似た者同士が顔を合わせた結果、パワハラの「被害者」と「加害者」の構図が出来上がるのである。
自己肯定感が低いと、その穴埋めをするかのように自己愛が肥大する。
自己愛とは「自分を愛する」ということであるが、それは自己肯定感を穴埋めするためのものなので、健全な方向に向いていない。
愛が健全な方向に向かない代表例がストーカーだ。
愛しているのは事実であろう。だが、その愛を「拒絶される」という事実を受け入れられない。愛している人の意志や感情を尊重することができず、自分の愛をただ、ひたすらにぶつけ「ストーカー行為」につながっていく。
ストーカーの加害者、被害者の図式も 自己肯定感<自己愛のバランスを持つモノ同志のめぐり合わせによるものなのではないか? と思う。
先日の記事で10年前より今の方が若見えであることを書いた。
パスポート写真のビフォア・アフターが面白いのでぜひ、読んでね♡
この記事にも書いたように、アラフォーと呼ばれる年齢のころ私は「モヤモヤ期」を過ごした。
この当時、セクハラやパワハラ、ストーカーといった状況において、私は常に「被害者タイプ」であった。自己肯定感<自己愛 の状態だったので、当然のことなのだけど。当時はそれが分からなかったので「どうして私ばっかり、こんな目に遭うの?」と思っていた。
自己肯定感=自己愛
の適正バランスを保つことの大切さが分かり、そして保ち続けるための「生き方」を会得した今、セクハラはもちろん、パワハラもストーカーも「被害者」にならなくなった。被害者を卒業して「目撃者」となってみると、自己肯定感<自己愛 という危ういバランスで「愛」を維持している状態が、いかに様々な問題を引き寄せるのかがよく見えるようになった。
「被害者」の立ち位置から卒業してみると「被害者であること」にいかに、多大なエネルギーを注いでいたのかと我ながら呆れる。
「どうして、私ばっかりこんな目に遭うの?」
そんな気持ちがよぎるとき、それは自己肯定感<自己愛の状態になっていて、被害者の立場にいる証なのだと、今だからわかる。
そんなときは。
自分を苦しめる「加害者」に対してあれこれ思いをめぐらせて、エネルギーを浪費するのではなく。
「ああ、私は今、自己肯定感<自己愛 の状態になっているのだな」
と考えて、自分の中のバランスを整えることに持ちうるエネルギーをめいいっぱい注いだほうがいい。
何かに焦ったり、落ち込んだり、不安になったりしているならば。
”問題”の解決方法をさぐるのではなくて。
「どうして、私は焦っちゃうんだろう?」
「なんで私は落ち込んでいるんだろう?」
「なぜ、私は不安なのだろう?」
そんな風に自分に優しく問いかけることが、唯一無二の「解決策」であることに気づけたら。
この世界はもっと生きやすくなるのですもの。
今日も読んでくださってありがとうございました。
みなさまの毎日にププッと笑顔があふれますように♪
0コメント