1996年私の身に起きた「華麗なる引き寄せ」を2018年改めて検証してみた!

こんにちは。栗原貴子です。

さかのぼること、22年前「女の人の役に立つ文章を書く仕事がしたい」と思い立ち、人生を変える「引き寄せ」を実現。私は大手出版社とのご縁をいただき「会社員をしながらの二足の草鞋でいること」を条件に「ライター見習い」をスタートさせた。


このときの「引き寄せ」とも呼ぶべききっかけは、フリーランス20年の中で幾度となく質問され、語ってきたが『誰かの役に立つかも?』と思いまた書く。


後半に経験から考察したこのときの引き寄せの「ポイント」をまとめてあるので、長い記事ですが読んでもらたら嬉しいです。


1996年当時、私は父親が経営する会社で事務の仕事をしていた。経理・人事・総務を1人で担当していたのだが、社員6名ほどの会社での仕事量はそう多くはない。新卒で入社した会社では激務だったので、はっきり言って「暇」を持て余していた。


その「暇」の中で唐突にふと「文章を書く仕事がしたいなあ」と思ったのである。1996年ごろだったと思う。ネットで検索する時代ではなく、情報は書物頼み。素人の浅知恵で「なにかに公募すれば道は開けるんじゃないか」と思い、書店で「公募ガイド」という雑誌を買った。

その日の帰り道の電車の中で、集英社の『COSMOPOLITAN』という雑誌の中づり広告が目にとまった。みると「読者を旅行に招待するよ」的なキャンペーンの告知があった。『この旅行に行けたら出版社の人と知り合えるかも』と思い、自宅近くのコンビニで『COSMOPOLITAN』を購入。募集要項を熟読し、応募に必要なのは原稿用紙2枚分、800文字の「作文」だと知る。


作文なら得意中の得意である。なぜか、自宅に原稿用紙があったので、さっそく書き始めた。募集要項で指定されていたテーマは『私のリラックス法』。温泉とか旅行というありきたりな内容では差別化ができない、と直感し「アイロンがけで私はリラックスします」という趣旨の作文を書いた。実際、アイロンがけが好きであった。


この作文により、私は見事、旅行に招待された。旅先では編集長に「君の作文、面白かったよ。今回500人ぐらいの応募があったけど、一番良かった」と声をかけていただいた。「一番良かった」という言葉に浮かれた私は「文章を書く仕事がしたくて応募しました」と打ち明けた。すると編集長は「編集者に相談しなさい」と後日、席を設けてくれたのだ。


そこで、私は冒頭に記した「会社員との二足の草鞋」を条件にライター見習いをさせてもらえることになった。二足の草鞋が条件だったのは「あなたが思っているような仕事なのかも、あなたに適正な仕事なのかも現段階では判断できない。だから、会社をいきなり辞めたりしないで欲しい」という集英社の編集者の方の判断であった。


読者ページのリライトや会社員女性を集めた座談会の人集め、といった仕事をふってもらった。報酬も規定の額を見習いなのに、しっかり払ってくれた。次第に、会社勤務に支障のない範囲での取材(終業後に行かれるなど)、単独での特集を任せてもらえるようになって、「もっと本格的にライターとして仕事をしたい」という思いがむくむくと湧き上がってきた。


そんなとき、会社の帳簿を見ていた私は会社の業績が厳しいという事実に気づき、社長である父にその旨を伝えた。金額的には1人分の雇用費であることを伝えると、父は「じゃあ、お前が辞めろ」と満面の笑みで言った。


フリーになりたかった私にとっては、大変な好都合である。ウキウキと集英社の人に「会社をクビになった」ことを伝えた。が、集英社の人たちは「お父さんにリストラされたかわいそうな子」と受け止めてくれた。嬉しそうなのも、きっと空元気であろうと。


そして「この子、お父さんにリストラさちゃったの。だから仕事を回してあげて」と私の代わりに編集部で営業活動をしてくれた。なんていい人なんだろう!と感動した。「お父さんにリストラされた」という残念なプロフィールが、予想外の展開を見せたのだ。


27歳になる年にフリーランスになることへの不安はあったけれど、それは街角の掲示板で「自衛官募集」の広告を見て「フリーがダメならこれがある。半年たっても生計を立てられなかったらこれに応募しよう」と決意したため、払拭できた。当時28歳まで応募できたのである。


街中にまで広告を貼って募集をかけている

大変な人手不足なのだろう

そんなに人手不足なら応募すれば合格間違いなし



という短絡的な思考で「これがあるから大丈夫」と信じていた。我ながら「バカなんじゃないか」と思うが、グーグル先生もいない時代、自衛官の仕事内容や訓練について調べるすべもなく「事務職に応募すればいいし」と思ったわけです(事務職には体力を求められないと決めつけていた)。グーグル先生があったら速攻で検索して「私には無理っぽい」とあきらめていただろうから、アナログ時代でよかったなと思う。

私の人生を変えた「引き寄せ」のポイント


上記の流れで起こった出来事は相当、華麗なる「引き寄せ」である。しかし、「引き寄せ」が認知され、私自身も耳年間になるにつれ「うまく引き寄せられない」という状態に陥った(そして「自己肯定感を低めていった」)。


そこで、初心に帰ってあらためてこの「華麗なる引き寄せ」のポイントを記そうと思う。


①何事もほとんど「思いつき」である


「文章を書く仕事がしたい」とか「公募しよう」とか「これに応募しよう」という一連の感情はすべてが「直観的に思った」ことであった。「こうしたら、ああなる」的な打算や計算に一瞬たりとも思考を使っていなかった。


②誰にも相談せずに即行動


「文章を書く仕事がしたい」と思ってから『COSMOPOLITAN』の公募を知り、作文を送るという過程において、私は誰にも相談も話もせずに行動していた。1996年当時のアナログな環境では「電話」ぐらいしか通信手段がなかったからだと思う。気軽に手軽にメッセージをやりとりできるSNSの功罪の大きさをあらためて実感する。


③周辺リサーチも一切なし


「自衛官に応募しよう」と思ったように、この一連の流れにおいて私は一切のリサーチをしていなかった。というより、アナログ時代ゆえに「一般人が情報を集める」ことへのハードルがとても高かったのである。情報収集に時間をかけるよりも、行動したほうが早いというのが当時のスタンダードだったように思う。これもインターネットの功罪を実感するエピソードだ。


④行動だけは迅速に


「文章を書く仕事がしたい」→「公募ガイドを購入」→「COSMOPOLITANの中づり広告を発見」→「COSMOPOLITANを購入」→「応募」


この一連流れは、実は1日の出来事であった。具体的には、その日のお昼ごろにひらめいて、夕方に公募ガイドを買って電車に乗ったら中づりを発見。自宅最寄り駅でCOSMOPOLITANを買い、作文を書いて、封筒に入れるところまでを、その日中に行っていた(ポスト投函は翌日)。


⑤あれこれ策をめぐらせなかった


「旅行に行けたらいいな」とは思ったが、「行けたらどう自分をアピールしようか」などと一度も考えなかった。旅先で「編集者と相談しなさい」と編集長に言われた時も「やったー」で終わりである。どういうプレゼンしよう? などと考えなかった。ただ「嬉しい」「やったー」である。そして、すべて「本音」を伝えた。「バカだと思われるのでは?」とか「反対」や「批判」をされるのでは? という考えは一切、浮かばなかった。

 プレゼン力を鍛えようとかいう、今ドキの時流にも功罪があるなとつくづく思う。


⑥とりあえずやってみよう!


ライター見習いというチャンスを得た時、先のことはノープランであった。「いつフリーになる?」とか「将来的なフリーでの活動のための根回しをしておこう」などという知恵はひとつもわかなかった。この「計画性のなさ」はフリーになった後、いろいろなシーンで指摘され、世の中の風潮も「計画や目標の大切さ」を重視するようになり、のちに「あなた、そんなんじゃダメでしょ」的に注意を受ける機会が増え、私はだんだんと「自己肯定感」を失っていった。


➆ピンチをチャンスにつなげる発想もなし


「実の父親にリストラされてフリーランスに」という事実は、「とても気の毒」と受け止められていたようだ。その結果、編集者の方が営業をしてくれたり、お仕事をいただいたりというチャンスにつながった。一方で私自身は「このピンチをチャンスにつなげよう」的な発想もなかったので、「売り込み」と呼ばれる営業のときに自分からは話さずにいたけれど、たいてい先方が質問してきて「お気の毒」と思われたのか、結果的にお仕事をいただいていたのである。




1996年から1998年にかけて私の身の上に起こった「引き寄せ」の数々をあらためて考察して2つの点に気づいた。


ひとつ目は「無知が秘める可能性」である。私の「ラッキー」のほとんどが「無知」ゆえに起こっている。テクノロジーの進歩により「無知」でいられない現代で応用するならば、「夢を叶えたければググるな」ということである。


ふたつ目は「社会の風潮の変化」である。1996年から1998年ごろ「計画性をもって、目標を定めて行動していない人」への風当たりも、さほどきつくはなかった。「実績はないけれど、あんた面白うそうだから仕事頼むわ」ということも少なからずあった。


しかし、次第に風当たりが強くなっていき、私自身の実績も増え、「計画的に目標をもって、目指しているのか?」を尋ねられる機会も増え、すでにオバサンになっていた私はさすがに「ノープランです」と言えず、耳障りのよい「目標」や「計画」を捻出して「口にする」ようになった。今、考えるとこのころから、ツキに見放されるようになっていたな、と思う。



だいぶ長くなったので、強引にしめくくる。


結局は「深く考えない」ことが大切なのだ。けれど、今の時代は環境的に「深く考えないための工夫」が必要である。「ググらない」、「行動を起こす前に手軽にメッセージアプリで人に相談しない」といった「テクノロジーとの距離感」を工夫する必要がある。


そして「成功の法則」的な社会的な風潮に影響されないことだ。アスリートの練習や習慣は必ずしもセオリー通りではなく「自分スタイル」があるものだ。活躍のフィールドが違っても「自分スタイル」には個人差があり、それは万人に言えることなのだと思う。一時期、流行した「朝活」も朝が苦手な人にとっては「やればはるほど、体調を崩す」行為であった。


「朝活ムリ派」の私は「朝活もできないダメ人間」と思っていたが、のちに遺伝子レベルで「ヒバリ型」「フクロウ型」というのが決まっていて、「ヒバリ型」の人は朝が得意。「フクロウ型」の人は「早起きをすると体調を崩す」と知り納得した。もう、体質なのである。遺伝子を持ち出されたら努力や頑張りでどうにかなるものではない。


こういう「知識」を得ることで「ダメ」だと思っていた自分が決してダメじゃないと知る場合もあるので「無知であること」とのバランスも大切である。


色々と書いたけれど。

少しでも参考になれば、嬉しいです!


今日も読んでくださってありがとうございます。

みなさまの毎日にププッと笑顔があふれますように♪

















栗原貴子のでこぼこオンナ道

栗原貴子/編集・ライター、コピーライター フリーランス歴23年。広告、宣伝、啓蒙につながるクリエイティブ制作、コピーライティングが得意。2019年より きもの伝道師 貴楽名義で着付けパーソナルレッスンを中心に活動開始。きもの歴は四半世紀越え。