「愚痴」も「怒り」も元をたどれば、自分が重ねた「我慢」が原因ですよ
久しぶりの友達から「元気?」とLINEが届き、返信すると「今日、悔しいことがあった」と返ってきた。
「このパターン、きた~!」
愚痴りたいけれど、いきなり本題を送るのははばかられるから、まずはご機嫌伺いのパターン。『申し訳ないけれど、この数年、あなたずっとこのパターンよ』と思いつつ、返信を迷っていると「〇〇さんから電話があって~」と次のメッセージが届いた。
「また、〇〇さんかっ!」
〇〇さんと友人の関係は「仕事上の知人」である。そして、この数年、友人はことあるごとに〇〇さんからの電話で落ち込んだり、腹を立てたりしている。
多分、友人はいつも〇〇さんのことで私に愚痴っていることに気づいていない。しかし、申し訳ないけれど、こちらはドラマの同じ回を繰り返し観ているような気分。
これだけの情報でも「もう、〇〇さんと関わるの、やめなよ」って誰もが思うだろう。うん。私もそう思う。電話なんか出る必要ないじゃんか。話すと不快な気分になるの、分かりきっているんだから。
でも、友人は電話に出るのである。
そこには、きっと「よい仕事の話が来るかも?的な期待」とか「悪い噂を立てられたくない」とか、「仕事上のつながりはキープしておきたい」とか、何らかの思いがあるんだろうな、と思う。でも、毎度〇〇さんのネタを聞かされる身としては「勘弁してくださーい」だ。
その数日後、私はミスをしでかした。仕事上のことなので詳細は省くけれど、その結果、ある人から立腹されたのである。
そのミスは例えるならば「玉突き事故」のような感じのもの。
「後ろからぶつかってきたので、前の車にぶつかっちゃった。車間距離、あけていれば防げましたけれど、そこ、失念してました。申し訳ありません」って類のものでもあった。
ご立腹な方は、私に等々と文句を言った。
車間距離をあけていなかったこと、申し訳ないなって思ってます、と謝った。私の判断ミスがあったのは事実だから。でも、どんなに謝ってもお怒りはおさまらずに話し続けるご立腹さん。聞いているうちにだんだんと「激おこポイント」が見えてきた。
ご立腹の根本原因は、クライアントと報酬面について話し合ってこなかったこと。
その積もり積もった我慢がついに!!!!なのでは? と感じた。
「その点については、私に言われても困るんですけど」
なんて言ったら、火に油を注ぐことぐらい大人げなさ選手権で優勝候補の私でも、分かる。なので「報酬については、私には判断できないのでクライアントにこのお電話の内容を伝えるので、直接、お話してください」というようなことを述べた。
冒頭の友人と、ご立腹さんに共通しているのは「仕事の報酬の面で、これまでいろいろなことを我慢してきた」という点。
この「報酬面で我慢する」ということは、じつは私にも身に覚えがある。というか、どちらかというと「我慢する人」であった。
我慢する人からの卒業、を無事に果たした私は「声に出して言える」ようになった。
企画やアイデアだしから、というケースと「ここを取材してください」ともう決まっている場合とでは同じページ数でも金額は倍近く違います、というようなことをしっかり言う。そして希望額を伝え、交渉をする。
今となっては、こんな当たり前のことを言えなかったほうが、どうかしていた、と思う。
しかし、今なお「どうかしている人」がいるのも事実である。そして、彼らはかつて「どうかしている仲間だ!」と思っていた私がいつの間にか「どうかしている仲間」から離脱していることを、私の言葉の端々からなんとなく察するのです。
一緒になって「ほんと、そういうの嫌だよね」とか「ギャラ安くて困りますよね」といった共感めいたセリフを言わなくなったから。
友人には「我慢していることあるでしょ?」と聞いたところ「わからない」と返ってきた。もう、我慢している自覚すらない、という大変に重篤な症状だ。麻痺しているんだけど、LINEだったので「我慢慣れしちゃってるね」とマイルド表現にしておいた。
LINEでこういう重たい会話をするのも、好きじゃない。
愚痴や相談は、対面かせめて電話にしようよ、って思う。
けれど、我慢に慣れすぎて「どうかしちゃってる」人は、慣れすぎて相手に「我慢を強いている」ことに気づけない。何が我慢で、何が我慢じゃないか? の区別がついてないのだから仕方がないんだけれども。
我慢慣れしていると、根本の原因に自分で気づけず、「玉突き事故である」という本質が見えなかったりもする。
仕事をしていると、「玉突き事故のようなトラブルの連鎖」はよく起きるもの。それを防止する策を取るのはもちろん、大切なのだけど。後続車が居眠り運転していたら、どんなに注意を払っていても事故は起きる。そして、居眠り運転を100%防ぐことは不可能である。それは、事故にも仕事上のトラブルにも通じる。
だから、車にはエアバッグがついているし、シートベルトがあるのだ。
エアバッグなしの車に乗っていて、シートベルトもしていなかったら、事故った時のダメージは大きくなる。
「我慢」はそれに似ているな、とかつて「我慢が当たり前になっていて、どうかしちゃっていた」私は思う。
大丈夫、大丈夫、とエアバック装備を断り、シートベルトも締めずに「我慢できるし」「頑張れば大丈夫」とばかりに生きていた。全然、大丈夫じゃないのにね。
エアバックなし、シートベルト未着用の我慢強い人は、ちょっとの衝撃でもダメージが大きくなる。だから、立腹するし、愚痴らずにいられなくなる。
今の私は「自分の本心、本音を覆い隠して、我慢を重ねるのは体にも心にも毒ですよ」と心から思えるようになった。
ただ、我慢していた時代は「本心や本音」は「なかったこと」にするクセもあったので、「ほんとは嫌だったんだ」と発見するのは、遺跡の発掘のようなものだった。建築現場でよく「遺跡出ちゃって、工事中断」ということが起こるように、思いがけないときや場所で私の本音や本心は発掘された。
「自分を愛せない」と感じている人は、たいてい「どうかしちゃっている」レベルでの我慢を重ねてきている。
なぜなら、自分を愛する、って自分の本音や本心を大切にすることだから。
「我慢を重ねてきたこと」を自覚して、問題の本質を「見極める」ことから始める必要がある。
それは、「どうしてこんな気分になるの?」と心揺さぶられるほどの感情を味わうたびに、自分に聞く作業を繰り返すしかない。
なんで、今、こんなにムカッとしているのかな?
なんで、こんな風に感じちゃうのかな?
その「なぜ?」の先に、本心や本音が眠っている。我慢慣れしている人ほど、本心や本音は心の中の奥深くに眠っているので、なかなかたどり着けない。最初に発見した時は、衝撃を受けるかもしれない。でも、一度、発掘できれば、次からは素早く見つけることができるようになる。
この「なぜ?」は向き合い難く感じる。でも「本心」「本音」を無視して我慢を重ねている以上、人生で感じるツラさは続くから。逃げてる場合じゃないよ、とも思う。
今年の目黒川の桜です。
今日も読んでくださって、ありがとうございました♪
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